2024/10/22
2024年10月21日付朝日新聞デジタルの記事によると、金融庁に出向中の元裁判官が、インサイダー取引の容疑で強制調査を受けているとのことです。また、10月24日付時事ドットコムニュースによると、東京証券取引所社員によるインサイダー取引疑惑が浮上したとのことです。いずれのケースも、企業の買収にかかる情報を利用して不正に取引したようです。このようなインサイダー取引は、市場の信頼をゆるがす、憎むべき犯罪です。そのため、インサイダー取引の防止のために、情報管理に配慮するのは当然です。その一方で、私たちが上場会社とコミュニケーションをとっていく中で、「これはインサイダー情報に当たるかもしれない」、と過剰に警戒してコミュニケーションが阻害される場面に出くわすこともあります。それが買収や事業の撤退にかかわるような話ならともかく、既に販売中の、主力というわけでもない一つの商品の詳細だったりします。そのような情報を受け取って取引をしたところで、それはインサイダー取引にはなりません。
2013年に、ガンホーというゲーム会社の株が急騰しました。そのきっかけは、2012年に発表され、今でも広く遊ばれている、パズドラ(パズル&ドラゴンズ)というゲームです。それまで1万円台だった株価は、1年ほどで160万円以上に急騰したのです。100倍です。この時、ゲームが初めて公開されて最初期に遊んでいたプレイヤーの中に、その楽しさに気づいてガンホーの株を買って大儲けをした人がいました。そのことをSNS上で自慢したところ、一部から「まだほとんどの人が知らない時に、自分だけその楽しさに気づいて株を買うのはインサイダー取引ではないか」という批判が起こりました。確かに、そのゲームの楽しさは遊んだ人にしかわかるものではないでしょうが、この人の取引もインサイダー取引にはあたりません。
では一体何がインサイダー情報なのでしょうか?この機会に少し、インサイダー取引規制について整理して考えてみましょう。
日本のインサイダー取引規制のきっかけは1987年9月のタテホ・ショックと呼ばれる事件でした。当時、本業とは別に資産運用にのめりこんだタテホ化学工業という会社が、債券先物の相場の急落で300億円近い巨額の損失を抱えました。当時同社は売上高70億円程度の会社であり、この件が知れ渡れば同社の株価が暴落するであろうことは明らかでした。ところが、損失が公表される直前に、同社の役員・職員、さらには取引先銀行までが、同社の株式を先回りして売り抜けてしまったのです。当時も、「不正の手段」の禁止という規定は法律にありました。しかしこの事件は、今では考えられないことですが結局立件されず誰も罪に問われなかったのです。この事件は、さらなる債券市場の急落をひきおこすなど市場への影響が大きかったこともあり、世間の注目を集めました。翌1988年、当時の証券取引法が改正されて、インサイダー取引がはじめて明確に禁止されたのです。インサイダー取引(内部者取引)がきちんと罰せられるようになっていくのは、それ以降のことです。
インサイダー取引規制そのものの枠組みはその当時から本質的にはそれほど変わっていないといえますが、いくつもの事例・判例を積み重ねていく中で、何が良くて何がいけないのか、については、ほぼ確定しています。その規制については日本取引所グループ(JPX)に特設ページがありますが、JPXの文書の中ではどちらかというと不公正取引防止のための啓発活動のページの下の方にある「インサイダー取引とは?」が良く整理されていて分かりやすいと思います。
規制は、「関係者」の範囲を絞り込んだ上で、経営や株価に大きな影響を及ぼす「重要事実」が「公表される前」に「取引等」してはならないというものです。これは、常識的に考えれば当然のことです。全ての人が同じ情報に基づいて取引を行うべきだからです。それでも倫理観の低い人はいるもので、金融庁の監督下にある監視機関である証券取引等監視委員会(SESC)の関連ページを見ると、多数の違反事例が告発されている様子がわかります(「内部者取引」とあるのがインサイダー取引です)。一方、SESCの親分にあたる金融庁では、関連規制をまとめたページの下の方に、「インサイダー取引規制に関するQ&A」を公表しているのが目につきます。この文書は2008年に公開されてから更新・追加を続けており、今年の4月にも応用編の2項目が追加されています。
この金融庁の文書は、「はじめに」を一読した時点でやや意外感をおぼえる文書です。インサイダー取引に対する正しい知識が普及していないため、多くの人がこわがって過剰に投資を控えているケースがある。金融庁はそれを指摘しているのです。ところが実感として、この指摘は大変もっともなものです。企業や投資家などが、法令違反の恐れに委縮して金融取引を減らしたり、情報のやりとりを止めたりしまうと、金融の停滞を引き起こします。それでは企業や経済の発展は望めません。また逆に言えば、そのような事態が起きている実感・危機感を、金融業者を監督する立場の金融庁自身が持っているということなのです。
この問題意識は、証券取引の活性化をめざすJPX(日本取引所グループ)でも同様です。金融庁の文書は特に重要事実を取得した人が取引を継続できるケースなどを豊富に説明していますが、JPXのドキュメントは、何が重要事実にあたるのかを列記しており実務上非常に参考になります。中でも各項目の右側の欄で「軽微基準」について詳しく列記しています。軽微基準というのは、その名の通り、軽微な事項だから経営や株価に大きな影響を及ぼさない基準をいいます。例えば3ページの11番では、他社を吸収合併するとしても、純資産で30%未満、かつ売上げで10%未満の増加であれば軽微な事項なので、それを知って取引をしても違反には当たらないことが明記されているわけです。新規事業や新製品などにも同様に基準がありますが、3年以内に全社の売り上げの10%を超えることが想定されない限りそれは軽微な事実だということです。
ちなみに、冒頭の例でいえば、販売中の商品は、その商品がその会社の売り上げの10%を占めるような主力商品であり、かつその商品情報が、株価に影響を及ぼすような重要な事柄でない限りそれは重要事実には該当しないでしょう。そのような情報を受け取って取引をしたとしてもそれはインサイダー取引規制の対象ではありません。また、パズドラのプレイヤーはそもそも関係者になりませんから、規制の対象ではないのです。
ところが冒頭述べたように、私たちが株主として上場企業と対話する際、規制の枠組みや、重要事実の意義・軽微基準などを踏まえることなく、企業側が「インサイダー情報かもしれないから」と過度に情報開示を制限することがあります。規制の内容を理解するのは面倒だし、万一違反したら大変だ、と考えるのでしょう。ルールを学ばずひたすら保守的になって委縮するのは、サラリーマンとしては安穏なことかもしれません。たとえていえば野球のルールが良く分からないので、野球はやらないでおく、というような意識でしょうか。
上場企業には株主をはじめとするステークホルダーと協働する責任があり、適切な情報開示や株主との対話を行うことが求められます。株主との建設的な対話を進めることが、企業の成長と市場全体の健全性に寄与します。日本取引所グループが定めたコーポレートガバナンス・コードにも、企業がこのような社会的責任を果たすべきことが明示されています。インサイダー取引を防止するためならば、規制を正しく理解せずにひたすら保守的になっていればよい、というわけではありません。前のたとえでいえば上場企業には、ルールを学んだうえで、野球に参加する責任があるのです。
適切な規制の理解と実践を通じて、企業は株主や投資家との信頼関係を築き、健全な経済活動を推進することが求められています。企業と投資家の双方向のコミュニケーションが円滑に進むことで、インサイダー取引を防止すると同時に、企業自身や日本経済の発展に貢献することができるのです。